コーギーのコタロウが旅立ってから、火葬場でもらった白い骨壷は、いまだにリビングのテレビ台の上にいて、私が朝起きて最初に話しかける相手です。
「おはようコタロウ、今日も謝らせてね。ほんとに、ごめんね」
これ、冗談じゃなくて、毎朝ほんとに言ってるんです。
コタロウが亡くなった日からずっと続いています。
「それ、今言う?」と思いながらも…
コタロウは、とにかく表情豊かな犬でした。
キュッと眉間にシワ寄せて怒るし、拗ねたらベッドの下に潜り込むし、褒められたらその場でクルッと回ってポーズする子でした。
晩年は少し足腰が弱ってきたけれど、カリカリを出す音にだけは過敏に反応して、ベッドからズルズル這い出してきたのを思い出します。
亡くなる前日も、ソファに登ろうとして脚を踏み外して、そのまましょんぼりと私を見上げてきたんです。
「抱っこしてくれたら良かったのに」って言ってるような目で。
その時にちゃんと抱き上げて、ぎゅっとしてあげてたら。
あの子の中に残っていた“私は大丈夫だよ”っていうプライドを、壊さずに見守れていたら。私はもっと、あの子に何かしてあげられたんじゃないかと、今でも考えてしまうのです。
骨壷の位置がズレるだけで焦る日々
実は先週、掃除機をかけていたときに骨壷をほんの2cmほどずらしてしまって、妙に動揺しました。
「あれ?コタロウの位置ってここだったっけ?」って。
おかしいですよね、もう中身はいないはずなのに。でも、そこに“いる感じ”がするんです。
それが本当なのか確かめたくて、私はアニマルリーディングを受けてみました。
プロフィール写真を見たとき、正直戸惑いました。
よくある霊能者のような雰囲気は一切なくて、どこか気のいいアウトドア好きのお兄さんという感じ。
最初は「この人で大丈夫かな…」と半信半疑でした。
でも、その印象は数分で覆されました。
「骨壷のそばに、小さな花を置いてますか?あの子、ちゃんと気づいてますよ」
「ソファに登れなくなっても、音を聞いては動こうとしてたみたいですね」
その言葉に、体の奥がジンとしました。
私しか知らない“コタロウの晩年のクセ”を、まるでそばで見ていたように語られたんです。
「毎朝話しかけてますよね?それ、ちゃんと伝わってるみたいです」
そのひとことに、思わず声を詰まらせました。
ただの慰めじゃなく、具体的な“生活の中のあの子”を通してつながれた気がして、私はようやく「もう少しだけ前を向いてもいいかもしれない」と思えたんです。
人間のくせにズルいって、コタロウは思ってるかも
一番キツかったのは、「私だけが生きてる」って実感した日です。
朝、洗濯物を干して、コーヒー淹れて、テレビつけて──その全てを普通にやっている自分に気づいて、「あれ、私こんなに普通に生活していいの?」って、突然泣きました。
コタロウがいたころは、洗濯物を取り込むたびにタオルに頭突きしてきて、「お手伝いしてるつもり」だったのか、ただ遊んでただけなのか(笑)…。
彼がいない今、同じ風景の中に“音”がなくて。“小さな邪魔”がなくて、私はそれを失ったというより、「捨ててきた」ような気持ちになったんです。
それでも、まだ謝りながら生きてる
「コタロウ、もしもまた会えたら、今度こそ“もうちょっと長く抱っこ”させてね」
そんなことを、骨壷に向かってつぶやく日々です。謝ってばかりじゃなく、そろそろありがとうも伝えたい。
けれど、まだ気持ちが追いつきません。
でも、それでいいのかもしれないと思います。
ペットとの別れは、“綺麗に終わる”ことより、“ずっと引きずって生きていく”ほうが自然なのかもしれません。
今日も、花を替えながら謝って、笑って、そして少し泣きました。
私の生活にはもうコタロウはいないけれど、“コタロウがいた生活の癖”は、今も私の中に生きています。
それがきっと、これからもずっと続いていくんだと思います。

